「黙れ。いいからさっさと行ってこい!」
「……かしこまりました」 苛立つレオナールに、これ以上は言っても無駄だと悟る。 エマは大人しく頷いたが、レオナールは冷ややかに言った。 「貴様が視界に入ると目障りだ。適当なところで引き上げて、あの薄汚い巣へ戻れ。ドブネズミめ」 レオナールは暴言を吐き、エマをきつく睨んでから、身を翻した。向かった先に、深緑のドレスを身を包んだ令嬢が見える。 「カミラ嬢……」 何度か見かけたことのある、公爵令嬢のカミラだった。 薄絹を重ねた背中や肩を露出したカットは、かなり大胆なデザインだ。 胸元を飾る大粒のダイヤモンドは、レオナールが贈ったものだと噂されている。 美しいドレスと宝石で着飾り、レースの扇子を手に持って、男達と談笑する姿は、ひときわ目を引いた。 レオナールが近づくと、歓声が上がり、楽しげに談笑する姿が見える。 レオナールが、あのように微笑みを浮かべるのは、カミラ嬢にだけだ。 (カミラ嬢と、結婚すればいいのに) どうして、婚約者が自分なのだろうと、エマは身の上を嘆いた。 レオナールを引き立てるために努力しても、成果を褒められることはない。忌み嫌われ、暴言を浴びせられる。 本当は、まだ挨拶するべき相手がいるのに、レオナールは王族の務めを放棄した。 エマは仕方なく、一人で外交官たちへ挨拶に回ったのだった。レオナールは弱小国などと見下しているが、王子の婚約者にすぎないエマが一人で挨拶に来たことに、ほとんどの者が気分を害したようだ。
きつい言葉で嫌味を言われ、エマはひたすら頭を下げた。 挨拶が終わる頃にはかなり疲弊していたが、それでも最後まで接待をしなくてはいけない。 (ちょっと休憩しよう) そう思って、壁の方へ移動すると、思わぬ人から声を掛けられた。 「エマ殿」 「あっ、ルシアン様!」 振り向くと、憧れのルシアルシアンの言葉に、エマはワクワクしてきた。 皇太子も王太子もいないので、失敗を恐れて緊張する必要もない。 (ルシアン様をご案内できるなんて……しかも、二人きりって!) 憧れのルシアンと、一緒にいられるのだ。 エマは浮かれそうになったが、脳裏にレオナールの姿がよぎる。 「ぁっ……でも……」 「どうしました?」 「その……先日、ルシアン様をご案内させて頂いた件で、王子に酷く叱られてしまいまして……」 もし、ルシアンと一緒にいると知られたら、レオナールは激しく怒るだろう。 いくら王命だと言っても、レオナールは自分勝手な理屈でエマを責める。このことが知られたら、どんな仕打ちを受けるか分からない。 エマは俯いて、両手をぎゅっと握りしめた。 (また、折檻を受けるかもしれない……っ) 思い出すだけで、身が竦む。 尊厳を踏みにじられ、苦痛に泣き叫んでも、許してもらえない。 あの時の恐怖に怯えるエマは、気付かぬうちに体を震わせて黙り込んだ。 (やっぱり、体調が悪いって言って、断った方がいいのかな……) ルシアンなら、エマが断っても許してくれるだろう。 せっかく、好きな人と一緒にいられる機会だったのに、それを手放さないといけないなんて。 「……も、申し訳ないのですが、」 「エマ」 そっと頭を撫でられる。 優しく呼ぶ声に、おずおずと顔を上げた。 「エマ、大丈夫ですよ」 ルシアンが優しい顔で微笑んでいた。 見惚れるほど端麗な顔に、輝く赤い瞳。間近で見つめられ、エマの胸が高鳴った。 (ルシアン様っ) ドキドキしていると、ルシアンがまたエマの頭を撫でる。 「心配することはありません。第二王子が狭量な人間なのは承知してます。エマは今日、王太子殿下の補佐として、馬がけに行っていることになっていますから」 「えっ?」 「王太子殿下にも、了承を得ています」
「エマ様……カミラ様が仰った言葉を気になさる必要はございません」 ナタリナが慰めるように、エマの背中を撫でた。 平民のエマには後ろ盾がないから、衣服はすべて支給品のみで、私服もなく装飾品も持っていない。 貴族出身の『聖樹』は、法衣でも、宝石をちりばめて美しく着飾っていたし、ブローチや指輪もつけていた。西殿(さいでん)では、ときどき聖樹同士でお茶会が開かれるが、その際は法衣以外の服装も許されている。 お茶会に呼ばれたことは片手で数えるくらいしかないけど、いつもエマは法衣のまま出席した。他の服を持っていなかったからだ。 「僕は王子の婚約者なのに、質素な法衣しか持ってない……カミラ様は素敵なお召し物で、とても美しかったのに」 「カミラ様は公爵令嬢ですから、比べても仕方ありませんわ」 「うん……」 「第二王子は、エマ様を貶めて喜ぶような男です。エマ様は何も悪くありません」 優しく背中をさする手に、エマもコクリと頷いた。 (王子やカミラ嬢の言うことは、気にしないようにしなくちゃ……) いちいち傷ついていては、ナタリナまで悲しませてしまう。 エマは支度を調えると、ナタリナを連れて天耀宮(てんようきゅう)へ向かった。 北殿(ほくでん)の天耀宮へ到着し、控えの間で待っていると、ルシアンがやってきた。 銀色の長い髪を一つに結び、赤い瞳が穏やかにエマを見つめている。 今日の服装も素敵だった。 春の時期に相応しい、深緑色の外套に、生成りのハイカラーシャツと、薄いグレージュのベスト。ボタンには琥珀色の石があしらわれていて、とても洒落たデザインだった。 (ルシアン様は、いつも素敵なお召し物だ) 洗練された貴族らしい格好に、美しいルビーのような赤い瞳が魅力的で、つい見惚れてしまう。 そんなルシアンに比べると、自分の服装が
「エマヌエーレ様。明日、王太子殿下とお会いしたさいは、ぜひ見舞い品のご感想をお伝え下さい」 「あ、はい」 エマはぺこりと頭を下げた。 侍女長がエマを睨んでいたようだが、無視する。 補佐官が控えの間を出て行くと、侍女長は目をつり上げて怒鳴った。 「レオナール様のご命令に背くなど、何を考えているのです!」 「申し訳ございません、侍女長」 「仮にもレオナール様の婚約者という栄誉ある立場に置いて頂きながら、王太子殿下に取り入るとは、なんと浅ましい!」 エマは頭を下げたまま、侍女長の罵倒を受け流した。 いくらエマが違うと言ったところで、レオナールと同様に聞く耳を持たないのは分かっている。 「まったく、けがれた平民に見舞いの品など、王太子殿下もお情けが過ぎますわ! 受け取りを確認するなんて……!」 侍女長は怒りに顔を歪め、その場にいた侍女に命じて見舞い品を持ってこさせた。ナタリナに向かって、投げ捨てるように渡す。 「もっておいき。王太子殿下に余計なことを話したら、容赦しませんよ!」 侍女長はエマヌエーレのものを奪っておきながら、詫びることもなく、脅しをかけてくる。レオナールに近い人物ほど、卑劣で陰険だ。 「はい」 エマは頷いただけで、反論はしない。 「侍女長。私は王子殿下の婚約者としての公務を、全うさせて頂きます」 エマはしおらしく答えると、逃げるように離れへ戻った。 しかしナタリナは、離れの部屋に戻るなり、侍女長への怒りを露わにする。 「毎度毎度、無礼な女ですわ! エマ様への贈り物を横取りしたあげく、非難するなんて!」 「ナタリナ、いいよ。侍女長が王子びいきなのは、今に始まったことじゃないんだから」 「エマ様はお優しすぎますわ!」 「ナタリナが、代わりに怒ってくれるからだよ」 エマが微笑むと、ナタリナが表情を緩める。 そして、エマを優しく抱きしめた。 「エマ様……必ず、私がここから出して差し
その瞳にはレオナールへの怒りが見て取れたが、エマは気付かない振りをした。 昨夜、レオナールから折檻を受けたあと、離れからの出入りを禁じられたのだ。 『男とみれば、すぐ尻を振って媚びるからな。節操なしのメス犬め!』 激しく罵倒されて、胸が痛んだが、エマに逆らう術はない。 どんな無茶な命令でも、従うしかないのだ。 (どうせすぐ、公務に差し障りがでて、僕に代わりをさせる) いつまでもエマを離れに閉じ込めておけるわけがない。 レオナールが自由気ままに出歩き、放蕩三昧で過ごすためには、王族としての仕事を代わりにこなす人間が必要だからだ。 (皇太子殿下が帰国してからになるだろうけど……) 昨日は、これで最後と思って、ルシアンの面影をしっかり心に刻んだ。ルシアンと過ごした幸せな時間も。 (ルシアン様……また、お会いできたらいいのに) 叶わぬ想いを胸に抱きながら、エマは再び眠りについた。 夕方になると、エマの熱は下がり、体力も戻ってきた。 やはり、連日の公務やレオナールの折檻が原因で、疲れから熱が出ていたようだ。 エマはたまっている書類仕事の続きをやろうとしたが、ナタリナに怖い顔で止められる。 「エマ様? 今日は公務をお休みしたのですから、お仕事をしてはいけません」 「でも、ちょっとでも進めておかないと……」 「いけません。休めるときに、しっかり休んで下さい」 そう言って、エマをソファーに座らせる。 ナタリナの話によると、昼間にレオナールの補佐官が仕事を持ってきたそうだが、追い返したらしい。そんなことをしたら、レオナールの機嫌を損ねるのではと心配したが、ナタリナは強かった。 「どうせ、第二王子は仕事内容など把握していません。無理やり押しつけるようなら、王太子殿下の名前を出して黙らせます」
王太子のうちに、敵を始末しておけと言っているのだ。即位してからでは、遅いと。 「ですが……エマヌエーレが、どう関係するのですか?」 「あれは害虫の巣にもっとも近い位置にいるのだろう? うまく使って証拠を集めれば良い」 「ティエリー殿下のご意見はもっともです。ですが、エマヌエーレに危険な真似はさせられません」 ダリウは首を振って答えた。 エマヌエーレは素直で嘘のつけない純粋な子どもだ。スパイの真似ごとなど、できるはずがない。 だが、ティエリーは冷たく言い放った。 「情に流されては、国を治めることなどできぬ。駒だと思ってやるのがよかろう」 「……ご忠告、痛み入ります」 そう答えたものの、ダリウは割り切れない。 もし失敗したら。もし侯爵側に気取られたら……そのときは、エマヌエーレを切り捨て、無関係を装わねばならなくなる。 あの不憫な聖樹を、これ以上、傷つけたくはない。 苦悩するダリウに、ティエリーはふっと表情を和らげて言った。 「それほど気が進まぬなら……未来のランダリエ国王のために、俺が手を貸してやろう」 「殿下が、私に?」 「ああ。聖樹に、デイモンド伯をつけてやる。あいつに任せれば、其方の手を汚さずとも、証拠をつかめるだろう」 「それは……私にとっては有り難いお話ですが……ティエリー殿下の利になるのでしょうか?」 何の見返りも無しに提案するはずがない。 ダリウはジッとティエリーを窺い見る。 警戒するダリウに、ティエリーは深紅の瞳を細めて、ますます楽しげに唇を歪めた。 「むろんだ。報酬は……そうだな。とりあえず、くだんの聖樹をもらい受けようか?」 「!?」 ダリウはサッと顔色を変えた。 ティエリーの指す聖樹とは、エマヌエーレに他ならない。 (エマヌエーレを……王家所有の聖樹を、譲れと言うのか!?) 『聖樹』は、ランダリエ王家の大切な駒だ。エマヌエーレがレオナールと婚約破棄した場合で
「素直なところは、平民らしいな」 「元々の性格でしょう」 「だったら、なおさら良い。ランダリエの聖樹には、興味があったからな」 ティエリーの台詞に、ダリウは目を見張った。 (まさか……今になって夜伽を命じるつもりか?) ティエリーは今まで、エマヌエーレに興味を示す素振りはなかった。公式の場で挨拶した以外では、顔を合わせたこともないはずだ。 レオナールの公務を代わりに任せたせいで、ティエリーの目に留まってしまったのだろうか。 ダリウはあわてて、ティエリーに言った。 「ティエリー殿下。夜伽をお望みでしたら、他に相応しい者を用意させますので、どうかエマヌエーレはご容赦下さい」 ダリウは必死の思いで頭を下げる。 「何故だ? あれはまだ番(つがい)を得ていないだろう?」 番のいるオメガは、他のアルファに性的な反応を示さなくなる。 そのため、ランダリエの聖樹は、正式に婚姻し子をなすまで番関係を結ばないよう婚約時に取り決められていた。もし子をなす前に離縁された場合、番がいては再婚が難しい。今回のように賓客の夜伽を務めるのにも、支障がでるからだ。 しかし、ここで未婚のエマヌエーレが夜伽を務めれば、聖樹としての価値が下がってしまう。それはエマヌエーレの将来を台無しにする行為だ。 「エマヌエーレは、まだ子どもです。ティエリー殿下を満足させることはできません」 「ダリウは、ずいぶんあの聖樹を買っているようだな」 ティエリーは楽しげな口調で問う。 ダリウは何と答えるべきか悩んだ。 (エマヌエーレは……おそらく未経験だ。閨事など知っているはずがない) それに、レオナールがエマヌエーレとの婚約を破棄して、公爵家のカミラ令嬢と結婚したがっていることも、把握している。 本来ならば、レオナールに「早くエマヌエーレと子を作れ」と叱って急かすべきだ。 しかしダリウは、エマヌエーレはレオナールにはもったいない、立派すぎる相手だと考えるようになった